ドーナツホールから見える宵闇

なんとなく思ったことを書いてます

勧誘さえなければ何でも良いと思います

夫は某宗教に入信している。(世間を騒がせている団体ではない)

夫の意思ではなくて、実家が代々そうなので生まれた時から自動的に入信していたらしい。

対して妻の立場である私は未だに無宗教を貫いている。

(多分私の実家を遡れば仏教なんだろうけれど、どこかの檀家になっているわけでもないし、特定の神様を信仰したりしていないので自分の中では無宗教としている)

もちろん夫の実家からはぜひ入信をと願われている事を知っているが、結婚するときに夫に入信しない旨を伝えているので今後も入ることはないと思う。

・・・嫁いだ先の宗教に入らないのはやはり嫁としてまずいのだろうか。

時々ちょっと考えるけれど、信じていないのに形だけ入るのもおかしな話だと思うので

やっぱり今後も入ることはないと思う。

正直に書いてしまうと、私が入信したとしても生活は何も変わらないのになぜ入信を望まれいるのか不思議だ。

保険の勧誘の方が分かりやすい。

 

フォローさせて頂いているネムヒコさんも以前宗教についておもしろい記事を書かれていた。

nemucafe.hatenablog.com

ご神体じゃなくて隣の人に恋してない?」との一文がハッとさせられる。

 

私は何か不運が続いたりすると神社でお賽銭を投げたりくらいはするけれど、そこに道を指示してくれるような影響力は感じていない。

会ったことも見たこともない何かを信じるという事ができない。

けれどそれを「会うことができれば、見ることができれば信じられる」と言い換えてしまうと、神様よりももっと危ない“誰か”を神格化してしまいそうで、それはそれで危険だ。

結局自分の事は自分が責任を取らないといけないので、信じるならば自分自身が良いと思っている。

 

誰が何を信じていようと自由だし、否定なんてできない。

というか、私には否定するだけの知識もない。

ただ一つ良いなと思うのは、知り合いが増えるという事だろうか。

同じ宗教というだけで仲間意識が芽生えるだろうし、夫もよく集まりに誘われている。

外から見ていると、自然とコミュニティができるのはまぁまぁ羨ましいよなと思う。

 

実家の近所に1人で住んでいる高齢者がいたんだけど、その人が家で倒れているところを発見して救急車を呼んでくれたのは同じ宗教に入っている知人だったらしい。

そういう話を聞くと定期的な集まりがあったり、近所に顔見知りが増えるのは最大のメリットだなと感じた。

社会からの疎外感も軽減されるだろう。

人は何かに属していたい生き物だから。

 

私は今後も何かを信じたりしたくないなと思う。

それに生活が左右されたり、制限されるのは嫌だ。

心の拠り所を作ってしまうと、それが失くなった時にしんどくなるだろう。

私は今現在、じゅうぶん幸せだからこれ以上の幸せは求めていないし、産まれながらの罪もないし、祈りを捧げる気もない。

 

それでも、何かを信じ祈りを捧げる人の姿はどうしてあんなにも美しく見えるのだろう。